アラサーさんが通る

アラサーが仕事を全うできるまでの記録

きっと大丈夫ということは無い

熱をもらった。
 
横浜ベイスターズの情報を最近忙しさにかまけて追っていなかった。反省した。
 
「君の想像を超える情熱を」というアジカンの歌詞があるのだが、本当に文字通りの熱を帯びた空間にいた。
 
CS開幕時、1位でもないけど、横浜は2位だった。だから、CSの制覇は3位の阪神より分があった。ここ数年ぶりに本拠地開催つまりホームで阪神を迎え撃つ状態、先ほど触れた2位のランク、球団の歴史的にみてもここ数年波に乗っている雰囲気。いろいろな要素が絡まって、数字的な客観的な根拠もないのに「勝てるだろう」といちファンの私は勘ぐっていた。
 
 
「勝てるだろう」の皮算用は最初は当たっていた。1回いきなり筒香が3ランを放ったから。見ていて、「ほら、いけるだろう」と高を括っていた。
 
野球の試合時間は長い。サッカーやバスケ好きな人からすると、時間で区切られないからいつもうだうだしているスポーツというイメージがあるそうだ。でも私は、その長さというものがとても好きだ。人生ドラマというか、1試合が長編大作の演劇のような気がするから。
 
大きな1つの勝利を掴むために、9回表と裏の攻めと守りを続ける。これ、1回でも長引いたものは数十分以上かかったりする。応援する側・見守る側も長い時間声援を送り続けることになる。ここで、やはり人間というものはわがままで応援や観戦に中だるみが生じてしまうのだ。硬直状態とでもいうのだろうか、0点と0点の繰り返しをしているとき試合は一番地味な時間が流れる。しかし、一番この0点という回が圧倒的に多い、よく見る風景だ。投手からしたらとても素晴らしい数字なのだけれど。
 
その地味な試合の一つ一つの要素を紐解くと、ヒットを打ったけど次打者のフライで全打者の出塁が点につながらないこと、ホームランになりかけた大きなアーチを描いたが外野に吸い込まれていかない打球、ピッチャーの投球を分析・観察し睨み続けてフルスイングしたと思えば空振り三振。点の入らない時間は、点につながらない時間は、見ている方は退屈かもしれない。
 
でもそれって、人の仕事と同じなのだ。朝起きて、資料を準備して午後の会議で提言をするも、周りの人に響かない。顧客のところに訪問して、契約をもらえそうだったのに自分の知らない理由で話が頓挫する。一生懸命、初めて知る会社に電話をかけても「じゃあ資料送ってください」で通話終了。売り上げの入らない時間は、働いている側は退屈かもしれない。
 
でも、野球はその点の入らない時間の積み重ねで状況が動く。自分のちょっと駒を進められた努力が他人のせいでうまい結果に繋がらなくても、相手チームの評価は変わる。次遠くに飛ばすにはどうしたらいいか、という思考はポジティブさを生む。球を投げ続けるピッチャーだってロボットじゃないからどこかで疲労のせいで、いつも同じ投球ができるわけじゃないから、状況は刻々と変わり続ける。まあでもこの時間も、人から見えるわけない思考の中なので、地味。
 
朝の資料準備ももっと早くまとめるにはどうしたらいいか考えるし、周りの人の必要な情報はなんだろうと必死に考えるようになる。契約の話の頓挫だって、顧客を取り巻くさまざまな関係性の片鱗を見れたことになる。電話をかけ続けることは、喋り続けることでどういった言葉が響くのか脳が学ぶ。この一連の分析は人の脳内で行われ、他人からしたら一切見えないから、地味。
 
でもそういった一つ一つの人間たちのトライアンドエラーと思考・分析が、状況の変化を作り出してふと一瞬、ヒットの連続を生んだり、仕事で新しくご依頼をいただけちゃったりする。そして、他人はこういった数字や結果しか見えない。
 
見える評価や数字の裏には、見えない地味な時間を使って試行錯誤した事実がある。野球を見ると、そういう一つ一つのスッと終わった投球や、グラブに収まってしまった打球の時間があって、それが分析されて点が作られているのだと感じることがある。
 
だから、ハイライトだけ見て満足できないというのは、こういうことが理由なのかなと痛感した。
 
そして、この試合の長さ、ここの長い地味な時間、落ち着かない空気、そういった煮え切らない雰囲気のものが、人生を作っている。