アラサーさんが通る

アラサーが仕事を全うできるまでの記録

その昔、昼顔を見て

女ってほんとう自分がヒロインになりたいのよねと呆れながらも、自分がこんなにも心動かされてしまったことに驚いています。
ふとこの衝動を書き残しておきたいという気持ちになってしまいました。


いろいろな教訓を残してくれた映画だとおもいます。


・紗和は三浜まで流れて、一人で生きていくことを決めたけれども、裕一郎に会ってしまってやはり彼を愛さずにはいられなかった、つまり最終的には一人では生きていけなかったということ。
・3年ぶりにお互いの存在を確認した時に、気持ちは抑えたままだったと確認できたこと。終わった想いではなく、(示談によって)「終わらせられたもの」であったということが確認できた。
・乃里子の自分の気持ちを抑えて紗和に対峙した強さと、愛する人を前にした時の本音の吐露の表と裏は、女ながら共感してしまったこと。
・やはり、改めて不倫というのは世間からは訳ありだという目で見られること。そして人の口に戸は立てられないということ。
・第三者の不倫なのに、無関係の人間が攻撃してくることもあること。
・紗和の強さ。線路上でもう未来は無いかのように天を仰いだけれども、死ぬのを思いとどまった際に「生かされた」という言葉がでた強さ。
・自分が思いを寄せた人が、行動で愛情を示してくれたことがこんなに嬉しいことはないということ。(乃里子を置いて紗和を追いかけ、ちゃんとしようとか、籍を入れようの言葉とか。)
・自分の思い込みで、勝手に不安になってしまって嫉妬してしまうのは、何歳になってもあるのだなということ。
・それと同時に、全てを包み隠さず話せない事情や心情が存在すること。
・周囲にカップルがいて、お互いがきちんと必要として、同じ時間・場所を過ごせるのは奇跡なのだとまで考えてしまったこと(ここから、映画館を出てすれ違ったカップルたちが輝いて見えた(錯覚かも))
・世の恋愛では、男は異性の容姿を選び、女は異性の経済力を選んでいるという事実を少し疎ましく思ったこと。
・自分も、多くの周囲の人間をも犠牲にしながら、得た幸せには神様のとばっちりがくるということ。
・結婚というのは簡単にしてはいけないものだということ。(姉の結婚という漫画の読みすぎかな、、、)


・もし、今パートナーがいる方が見たら、今は幸せでもこの先違った恋愛をするのかもと考えた人はいないだろうか。
・もし、自分の彼氏に想いを寄せている人がいるんじゃないかとか、根拠のない不安を覚えてしまったこと。
・ここまで愛せたことは、自分はなかったかな
・2時間半で、一生をかけても説明のつかない恋愛を見させられてしまったこと。凝縮された時間でした。

 


「3年」
映画という架空の設定だけれども、3年の時間の重みというのはドラマを全話見て映画化までの時間を過ごした時間を考えた時、本当にいろんなことがある。私事だが、いまの仕事を始めて丸3年は経っていない。3年という時間を考えたら、中学生は高校卒業をするような年数だし、新入社員はそこそこな仕事を任せられる。オリンピックは目前に迫るような年数である。3年で人生が変わることなんてザラにある。この3年の間、顔を合わせない・連絡も取らない誰かのことを思い浮かべるなんてこと、私の人生にはまるでない。Facebookもあるこの世の中なのに、想いだけ残っているなんてことはない。
3年の間、孤独の風に晒された独身の女の心の寂しさは、計り知れないと思う。きっと自信を持たず、過去の過ちを攻め続け、「わたしなんか」という思い込みで他人との接触を避ける。自分のことを自己肯定できない人間は、恋愛はおろか仕事でさえも自信を失っていく。


「ひとり」
一人は楽だ。一人っ子の私がいう。本当に楽だ。自由な時間は、一人の行動から始まって行く。紗和の一人暮らしもそういうものなのかなと感じる。誰かと出かけるにも必ず電話やメールで連絡を取らないことには始まらない。つまり言いたいのは、一人でいたいとその人間の心が決めてしまえば、一生一人でいることも難しくないのだ。他人の言葉と目が気にならなければ、必要最低限の言葉を交わして生活を送ることができる。
でもそれは、自分は悲劇のヒロインと陶酔したり、自分の判断が一番正しいという勘違いを生んだりする。そして、その「人と変わったところ」を受け入れてくれた人間が現れたとき、その人に依存をしやすい。それは、わたしの10代〜の経験を重なる部分がある。
一人っ子で母子家庭だったという私の育ちは、25歳の不自由ない普通の会社員になった今でも大きな影響を与えていると思う。殊更こういう孤独と愛情などの場面がくっきり描かれた作品を見てしまうとシンパシーを感じてしまう。一人でいた時間が長い場合、ある日を境に誰かと生活を共にするのは革命ぐらいの大きなことだ。(実際私が同棲を始めた時、過去を振り返ってこんな大きな変化はないと思ったのだ)


紗和と乃里子の「好きな人を追う」行為
普通の感覚で言えば、電車に乗ってとか車でつけて、愛する人の行動を追いかけるなんて常識的には考えられない。2人とも行きすぎた行動だと思う。でもこの二人の行動がなければ、、、。例えば乃里子が車で三浜まで追わなかったら裕一郎は紗和に「ちゃんとする」なんて言葉を告げるに踏み切らなかっただろうし。紗和においては、嫉妬に苛まれて裕一郎をこんなにも愛していることなんて気付かなかったかもしれない。追うことで二人とも自分の気持ちに傷を自分でつけた結果になってしまったけれども、この行為がなかったらそれぞれの本音と向き合えなかっただろうし、展開的には物語は動かなかった。
あまり褒められた行為ではないけれども、それは愛情の深さの裏返しかなと思う。


身辺はちゃんとしてねの教授の言葉
婚姻関係は身辺。恋愛はゴシップ。


紗和の強さ
乃里子の離婚後も元夫を名前で呼んでもいいかしたというちょっとした願いに対して「嫌です」と苦し紛れにもしっかり伝えたシーン。
線路に横たわり、天を仰いで見ている側には「裕一郎を追って自殺をしてしまうんじゃないか」という不安を与えながら、どこかで考えを改め生きることを選択した紗和のシーン
この二つのシーンには本当に心動かされてしまった。
特に線路のシーンでは絶望感はどれほどだろうと感情移入。たくさんの人を傷つけ、相次ぐ非難を乗り越えながら、やっと手にした幸せが一瞬にして消えてしまった。いっそ死んでしまった方が楽じゃないかと、(そんなドラマのようなことは起きないけれども)思ってしまうだろう。やっと見つけた、自分にもこんなに誰かを大切に思えること、そしてそれが幸せとして形を結びそうな期待を一気に砕かれたら、もう私の人生って結局いいことはなく、人のものを奪おうとした神様が与えた罰だ。
人のものを奪ってはいけないという倫理と、一生をかけて愛せる人を見つけた喜びは、どちらが勝つのだろう。その2つに因果関係がなければ、どちらも尊重されることだ。
財産、信条、努力で培った功績。人の大切にしているものは侵害してはならない。なぜなら、そこに侵害する者の自分勝手な想いが見えるからだし、大切なものを築いた者の努力なんて侵害者を傷つける権利もない。
世の中妥協で結婚したなんていう言葉が少し見え隠れする中で、本当に本当に愛する人と巡り会えたことは大切にすべきだ。なぜなら、それは奇跡に近く、深い愛情を覚える対象が他人なんてことは人間だれもが経験できることではない。


人間の業
業という言葉を使うと、私は金銭に対する強欲さなどのイメージが出てきたりするのだが、愛情においても人間の業があると実感した。
辞書で業という字を調べた時、今日、一般的にこの語を使う場合は、(因縁・因果による)行為で生じる罪悪を意味したり(例えば「業が深い」)、不合理だと思ってもやってしまう宿命的な行為という意味で使ったりすることが多い。と出てきた。


また不合理だと思ってもやってしまう宿命的な行為というのが、この映画に合っていると唸らせる。