アラサーさんが通る

アラサーが仕事を全うできるまでの記録

寝ても覚めても朝はやってくる

フランス語タイトル、ASAKO。日本語原題、寝ても覚めても

 


・〇〇子という名前を使うことからわかる、フランス人のフェチズムを感じた日。
・川がどうして、私たちの心に必要なのか。
・四六時中も好きと言って。寝ても覚めてもというタイトルの大切さ。
・顔と恋愛のこと。


2018年から2019年に変わる時、フランス旅行をした。この地で足を踏みしめること、実に2年半ぶりだった。10代の憧れ、20代前半の留学でなにも出来なかった悔しさ、20代後半の消えぬ思いが詰まっていて、現在進行形で縁は終わらない。


元恋人に消された日系航空会社のパリ行き航空券の代わりに、恨みを晴らすかのようにフランス系航空会社のチケットを買った。実はいわく付きの旅行だった。その差額6万。高い金額と思うか、一生のうちのキラキラ輝いた10日間ならそんなの安いもんだと見るか。私なら、値段の高い低いという問題ではなく、プライドの16万だったと記しておきたい。
航空券が消された時、私の年末年始の旅行はどうなるかと頭が真っ白になった。そして、彼の怒りの表し方があまりにも稚拙で醜くて、落胆し、声を上げて泣いた。それくらい、フランス旅行は大事だった。


彼は私の人形だった。アジア人の人形だった。
日本好きのフランス人男性の中には、強いというフランス人女性らしさが好きじゃなくて、アジア人の特に日本人女性の優しさや穏やかさを求める嗜好の人間が一定数いることをそことなく感じていた。彼も実はその一人で、冗談だと思うが「DNAだよ」と言うほどまでだった。
日仏のカップル・夫婦は、多いと聞く。その心理の背景があるから?まあ夫婦のことなんで、とやかくは言えないだろう。言えるのは自分の過去の恋愛に留めよう。


ただ、そういった人たちの中で囲まれていると、自ずと面白いフラーズを聞くことがある。あるフランス人が友人に対して「お前の彼女の名前は〇〇子」じゃないのか、ハン?みたいなことだ。ああ、でも日本人でもよく言うよな、とは感じる。由紀子、愛子、絵里子。「子」で終わる名前は、伝統的で、とても日本的だと。


だからそう、この映画「寝ても覚めても」から「ASAKO」へのタイトル変更は、日本の映画であるということをフランスに示すための一番良い手段だったのかもしれない。この作品を見る前は、どうせかわいい儚げな女の子が全面に出て、フランス人のフェチズムを誘っては増長させるんだろうなと、(別れた直後なので)うがった目で見ていた。


アジア人に対する思いは他でも感じることがある。パリのRER線、A線である中年のフランスおじさんに日本語で声をかけられた。実に面白おかしく、気持ち悪い体験であった。いわゆるナンパだ。しかもアジア人のみをターゲットにしたやつだ。日本に18回も行ってると彼は言っていたがどうしてそんな日本語なのかというくらい、言っていることがわかりにくい。「好きな映画はなんですか?」と聞かれた。「フランソワ・オゾン監督の映画が好き」と答えた。「わからない」と彼は言った。
わたしはざまあみろと思った、器量の狭い女であった。きっと彼はわたしの回答が「アメリ」であることを期待していたに違いない。その3文字が並べば、しめた俺のターンと言わんばかりに、モンマルトルのカフェでほにゃららほにゃらら会話を展開してくるんだろう。「アメリ」はフランス映画の入り口であるが、決して深い内容などはないので、注意。


そんな風に、日本人女性に対する変な視線に辟易していた頃だったが、寝ても覚めてもの主題歌がtofubeatsのRIVERであることに数日後に気づいた瞬間、日本で見ることを決めた。音楽を理由に決めた。心大荒れの10月末、彼の恵比寿のライブに行って、いたく癒された一曲だったからだ。


「川」にまつわる音楽は、昭和歌謡の「神田川」「川の流れのように」から、昨今まで時代を席巻したAKBの「RIVER」がざっと頭に浮かぶ。川が日本人の心の拠り所となったのは鎌倉時代鴨長明による方丈記にも現れていると思うし、旅行などで川の流れを見つめては「行く川の流れは絶えずして、しかしもとの水にあらず」なんてセリフはちょっと教養に背伸びした学生や大人なら浮かぶ言葉である。(え、違う??)


映画のワンシーンから引用したい。あさこが、亮平と一緒にいた時間は、「眠っていたようだった」とかつての恋人バクと再会した時に言った。厳密に言うときっとバクとの別れで、覚めた時間になった。


私も、彼との時間は幸せなんだと、言い聞かせた。別に特別ドロドロでもない、端から見たらなんの問題もない幸せそうなカップルだったと思う。でも、昔の人の存在がバレて目が覚めた。長い眠りから目が覚めた。私は、なりたかったけどなれなかった自分と向き合いたくなくて、イエスマンになって、どんどん理想を吸い込んだ女になっただけ。それが眠りから覚めた。


ふと、まだまだ頭に残る、あの人へ投げたい言葉。「わたしのこと、好きとかじゃなくて、愛してた?」「わたしとの生活、もう考えられない?」「ごめん、会いたい」「過去になるのが嫌だ。」「時間は解決しないの。解決するのは、新しい自分なの。」実に重い、他人からしたら勝手にやってろなんて思っちゃう恋愛だったのだけど。

そんな思いも、「もとの水にあらず」というように、ずっと同じ気持ちなんて有り得ないのだ。


はて、そこで。日本人のみなさん。「寝ても覚めても」の意味をどう解釈しますか?ただただ言葉遊びで「寝ても冷めても」なら、ああ、もうベッドの上で心が冷えきっちゃったしみたいな少しダメな恋愛してしまった感じを出せますね。
というのは愛嬌で、ここで投げかけたいのは寝ても覚めても、〇〇〇〇、、みたいなこと。
寝ても覚めても、君を愛してる」とか「寝ても覚めても、忘れられない」とかそういった類のこと。寝ても覚めても消えない思いが、世間に受け入れられないときはどうしたらいいのか。隠匿の生活を覚悟するのか、払拭・消去に出るか。わたしは共存が可能な人間になりたい。そういう者に私はなりたい。


ここで余談ですが、サザンオールスターズの色褪せない名曲「四六時中も好きと言って」というサビが頭に思い浮かぶみなさんは皆んな仲間であると思っています。


こういう日本語の意味から、映画のタイトル「寝ても覚めても」という日本語は掻き消して欲しくなかったと願う一個人なのです。人も食べ物も芸術作品も海外に出るからには、現地に合わせて形を変えていくものだが、日本語の核、意味を忘れずにいたい。


はてさて、この映画の重要なポイントは、顔だ。元彼と今彼の顔が瓜二つでどうしようということ。過去の恋人に似ているから、今の人を好きになったということなのだが、これまたよくある話。それだけ顔というのは重要なのだ。


イケメンだとか可愛いとかそういう顔の話題ではない。


どんなに中身がいい人と聞かされていても、オペラ座の怪人のような男に口説かれたとしてそんなすぐ恋に走れるのだろうか。表情を読めなければ、コミュニケーションの気持ちも盛り上がらないし、目の前に誰かいるという情報がなければ、顔で存在を確かめなければ、誰と話しているのかわからない。


顔は、誰かがそこに存在しているという何よりの証拠なのだ。


少し話題を広げると、顔というのは国の香りを常にまとっていて、地域性を伴う。〇〇人っぽい顔とかよく言うだろう。日本に長く住んだから、アジア的な顔には慣れていて、好きなのか。いやいや日本にいたから、西洋の顔が自分にはショックくらいの驚きで、自分達にない長い睫毛と堀に引き寄せられてしまうのか。100万回くらい繰り返された、東洋と西洋の顔の違いに関する話題をわたしたちは今日も繰り返して生きていくのだろう。